佐仁通信

 

あの人は、今いずこに・・・


 昭和二十二年(1947)十月、わたしは叔母の親子や姉とともに旧満州(コロ島)からの引揚船、約一万トンの摂津丸にゆられて祖国日本、広島県宇品港に向かっていました。
 これより先、昭和十九年七月、夏休みにはいって間もなく・・・。その年の三月に奄美高女の入学試験に失敗し、傷心のまま笠利小学校高等科一年に通学していましたが、当時満州鉄道に勤務していた長兄が当人のわたし以上に落胆し、「ぜひ満州に来て、女学校に進学するように」すすめ、姉は叔母のお産の手伝いということで、二人で渡満したのでした。一年遅れで、希望していた奉天の浪速高等女学校に合格、晴れて勉学にと励んだのも束の間、昭和二十年八月十一日ソ連が太平洋戦争に参戦。それまで空襲もなく、配給制度ではありましたが食料事情も良く、平和で穏やかな満州での生活は一瞬にして戦場と化し、大きく口をあけた地獄へと落ちていきました。

 わたしたちは、ソ連軍に追われ北朝鮮、今のピョンヤン近くで疎開、家を出て四日目の八月十五日敗戦を迎えました。間もなく朝鮮は北緯三十八度線が敷かれて南北に分割され、わたしたちは日本に帰れず、といってもといた奉天にも戻れず、そこにとり残されたかたちになってしまったのです。六ヶ月後にやっともとの満州に帰ることができましたが、その間の苦労は筆舌につくし難く、生き地獄とはかくやありなんというものでした。飢えと寒さで老人と子どもは80%が死亡するという痛ましい状況で、人間の生死の極限とはこんなものかと、いま思い出しても身の毛の立つ悪夢です。そのことについては、いずれ筆を改めたいと思いますのでここでは省略します。

 敗戦の日から父母兄弟の待つ祖国日本への帰路の船旅についたのは二年と二ヶ月後の昭和二十二年十月、およそ一週間の船中での生活でした。なんと船足のおそいことか。貧しい食事となんの娯楽もない毎日でしたが、間もなく日本の土を踏むことができるという安心感からか、それほど苦になった記憶はありません。
 いよいよ明後日は、広島県の宇品に着くという日、船中で「お別れ会」が催されました。いまでいう「のど自慢大会」みたいなことになったようで、マイクを通していろいろな人の、いろいろな唄が流れてきました。船の甲板にいるたくさんの人々の頭上には月が煌々とかがやいていました。何人かの唄が流れたあと、やがてひと際うつくしいは張りのある、とても印象的な唄が流れてきました。お顔はもちろん年齢も分かりませんが、おそらくは二十歳前後ではなかったでしょうか。唄はいまでも忘れません。『宵待草』です。

待てど暮せど 来ぬ人は
  宵待草のやるせなさ 今宵は月も出ぬそうな

 故郷を離れて三年、父や母、兄弟がどうなっているのか全く消息がわからない時、その美しい唄声は、わたしにかすかな希望とひとときのほのかな安らぎを与えてくれました。
 あれから六十年の歳月が流れ、わたしも七十歳代になりました。「宵待草」のあの美しい唄声の主は多分わたしより三、四歳上のはず。今ごろどこで何をなさっているのでしょう。まだご存命で、たくさんのお子さんやお孫さんに囲まれているのでしょうか。お顔も知らない「その人」のことが、宵待草の唄を耳にするとき、きのうのことのようにしのばれます。


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