佐仁通信

 

木守柿と小さなボランティア

 九月中旬のある日早朝、朝飯を済ませたところに、四十数年前職場を共にした、夫と共通の先輩で九十歳近いTKさんから夫が電話をうけました。
「おい、TKさんからの電話だ。この前、名瀬市街地の老人クラブの希望者を募って、笠利町史跡や景勝地をバスで案内してまわったところ、あやまる岬の永野芳辰さんの胸像が、鳥の糞などですごく汚れていて恥ずかしい思いをした。永野芳辰さんといえば君たち佐仁の先輩だろう、佐仁でボランティアを募って掃除をしてくれないか」ということでした。

 電話をくれたTKさんも同じ笠利町のご出身で、奄美における文化活動の中心的存在です。恐縮気味に電話を受けた夫は、近隣集落で閑居自在してボランティア活動している「安陵会笠利支部」の二、三人の後輩に趣旨を伝え、「具体的には明朝あらためて連絡する」と電話していました。
 私たち夫婦は、とにかく一度現場を見てみようということで、同日夕刻ドライブついでにアヤマル岬にでかけました。周辺の雑草はきれいに刈られ、ゴミもおちていませんでしたが、二メートル近い台座の胸像は、野鳥や渡り鳥の糞で汚れみすぼらしい。とりわけ、頭上に羽を休めた海鳥の糞が眼の下にながれて固まり、生まれ故郷を向いている永野先生のお顔は、近年の世相を憂いて涙を流しているように受け取れなくもありません。
 後で知ったことですが、TKさんたちの笠利一週のバスツアーは、奄美市合併を機に「まず地元の良さを再認識しよう」という趣旨で、大型バス三台をつらねての催行だったという。なるほど、これではTKさんが「恥ずかしい」思いをしたというのもうなずけます。

 余談ですが、俳句の季語に「木守柿」という言葉があるそうです。これは昔から柿ノ木にに一つだけ熟れて食べごろの実を残しておく習慣で、野鳥や旅人に「お腹がすいたら食べて下さい。いっしょに天の恵み、自然の実りを分かち合いましょう」という意味合いに由来するのだそうです。山里の大きな柿ノ木に一つだけ取り忘れたような柿が夕日に映えている風景は、想像するだけで心和みます。村びとの優しい心遣いを知れば、なおさらに心癒される思いがします。

 アヤマル岬の現場を下見して帰宅、清掃用の鎌、バケツ、スポンジ、歯ブラシ、洗剤類など持参するものをメモしているところへ、友人が訪ねてきました。理由を聞かれて、事の顛末を話すと、
「他の集落の人たちにお願いするわけにはいかない、安陵会のみなさんには折角だけどお断りして、わたしたちで清掃にいこう」
ということになりました。
 頑張れば一時間半ぐらいで終わりそうな作業量です。毎月一回拙宅に集まって自然食材を中心にした郷土料理などの話をしたり、ときには野山や海藻採集に出かけたりしている「三十日会」のメンバーに呼びかけたところ、時間に余裕のある数名の仲間がすぐ賛同してくれました。七十歳から最高齢者は九十歳のおばあちゃんたちです。翌日の夕方、夫の運転する車ででかけました。
 ちょっと距離のある歴史民族資料館から車で水を運ぶ人、タワシや歯ブラシで磨く人、水で洗い流す人、雑巾で拭き取る人、それぞれ役割分担して作業は一時間ほどで終わり、永野翁の胸像はみちがえるようにきれいになりました。
 ほどよく汗をかいた後みんなで岬の突端まで足をのばし、大平洋に向かって深呼吸をすると、だれ言うともなく
「気分爽快!」
そして、来年からは年に二度、盆暮れにはみんなで掃除にくるようにしよう、と話し合いました。

 道ばたに空き缶がころがっている、見苦しいなと思ったら、拾い上げて空き缶入れなど所定の場所に入れてやる。わたしはそれが人として自然な所作であると思います。ボランティアの初心であり原点だと心得ています。何も片意地はらなくてもいい、自分自信に取り立てて義務付ける必要もありますまい。
 山里の村びとが街道筋の柿ノ木に「木守柿」を残して、旅人の飢えを癒したような、困っている人がいればそっと手を差し伸べる。自分の周りをあまり見苦しくしない、そういう人としての自然な心情の発露がボランティアの原点であってほしい。


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