サンゴビングア 笠利町 佐仁
出席者
森山 久子(88)田中 アイ子(84)安田 ヨシ(84)越間 エイ子(79)
西 カメ子(79)田中 シモ(76)奥 チズエ(72)平 サチエ(70)
松元 みき(70)平 テイ子(68)仁木 ユキエ(68)仁 道子(65)
米田 カズミ(65)
アッカラ サンゴビンヌキュリ
ワンモレガ サンゴビン サンゴビン
ワヌヤ カクリテウリバ
ウランチ イイヨ ドシンキャヨ ドシンキャヨ
(向こうから三号瓶が来るよ)
(私を貰いに 三号瓶 三号瓶)
(私は 隠れているから)
(いないと言ってくれ 友達よ 友達よ)
島唄のこうき節の一節より
笠利町佐仁集落で、何でも気軽に普段着で話せる会、昔風に言えば井戸端会議とでもいいましょうか、最年長者は八十八歳、下は六十六歳という幅広い年齢層の女性だけの会が発足しました。
毎月三十日に集まるので、三十日会となずけました。女性達が普段着のままでいろいろな事を自由に話せる場がほしいと言う事で始められました
笠利町では二十九名の区長さんのうち、四人が女性です。ここ数年、女性の社会参加が目立ってきております。
話の内容は家族の事やムンツクリ(家庭菜園)、地域活動、生涯学習、時には政治や社会の動きにまで、発展する時があります。
それぞれに手料理を持ち寄り、夕食の片付けなど終えた頃から始まるこの会は、とても和やかで、女性たちが生き生きと輝いて居ます。十一月三十日の会は『サンゴビン』の話しで盛り上がりました。
森山 この中で『サンゴビン』がさずかった人、届いた人、何人くらいいるかね。
松元 およそ 半分くらいよ。
米田 私の場合は、相手のご両親が持参しましたね。
平テイ子 自分に『サンゴビン』がきたとは知らずに受けていた。夫とは遠い親戚にあたるので、親戚のおじさんが遊びに来られたと思っていたら、あとで『サンゴビン』を持ってきたと知らされてびっくりした。
森山 こっそり、懐に忍ばせて持ってくるので『サンゴビン』の事を『フトコロゼェクァ』ともいぅんだよね。世間の人に知れて、もし破談になった場合、後の縁談に差し支えるので、内々に進められた。いわば『チュウニン イイヤブリ』(口は災い)される事を恐れたのでしょうね。もうひとつ言えば、親同士だけで決めた縁談が多かったため、それを成功させるためには、内々に進める方がよかった。だから、本人たちでさえ、後で知らされる人がいたわけですよ。
越間 私たちの時代は、半強制的に親が決めていたのが普通だった。
田中 私の場合も親戚、親同士が決めてあった。十人中、六、七人はそういうふうに本人の意志などおかまいなしだった。
松元 いくら、親が決めたと言っても、他に好意をもっていた人がいたりして家を出た人などはいなかったのかね。
安田 親に逆らう事など、絶対できなかった。いくら自分の意に添わなくても、今のように交通手段もなく、自由に使えるお金も持っていなかったから、どうすることもできなかった。あきらめるしかなかった。
森山 私も本当は夫になった人、そんなに好きでなかった。(笑う)
---全員 大笑い---
米田 私の母も父を好きでなかったらしい。それで、夜になると、逃げて歩き回っていたと言っていた。なのに 兄弟が七人もいるのはなんでと母に聞いた事がある。苦しい時代だったからね。説明しづらいよね。
奥 カメ子ねえさんは、ご主人を養子に迎えられたんですよね。その場合どうだったの? 逆に女性から『サンゴビン』が男性にいったの?。
西 親戚同士だったので、両方の親が決めてあった。逆の方法でこちらから相手に持参したわね。
安田 経済的に恵まれていなかった人たちは『サンゴビン』もしなかったみたい。ただ 口上だけで済ませたようで、結婚の時まで貧困の差があったみたいね。
森山 島では、財産(田、畑、山林)をたくさん持っている家系は、よその家系に財産が渡るのを嫌って身内(いとことかの親戚)同士の縁談を親が決めたのも結構多かったよ。
柴田 ミキねえさん達は?
松元 私達は、当人同士結婚することを決めて、それから、私の両親に承諾を受けに行って決まったので『サンゴビン』を持っていく必要がなかったと思う。
仁木 私は覚えていないよ。
平サチエ 恋愛結婚だったから『サンゴビン』のところは省略されたんじゃないの。
松元 チズエ姉さんはいろいろな会合などに積極的に参加され、いつものびのびと生活されているけれど、ご主人が理解あるからかしらね。
仁木 ご主人が三年間、通いづめてもらった大切な人だから、粗末にできないんだよね。
奥 他にも私に思いを寄せていた人がいたらしいけれど、主人が何かにつけ、私の家にばかり出入りしていたので、その人は主人にかなわないと行って、諦めたらしい。ずうと後になって聞いた。 ハハハ。
松元 いろんないきさつがあって、『サンゴビン』を交わし、いよいよ口結びですか? 結納ですか。そうなると、どうどうと公表してもいいわけですよね。
奥 私の場合は、終戦後の一番物資が不足していた頃だったので、餅ではなく 餅米を俵ごと持参されたので、我が家で餅にして親戚、友人に配った。
田中 私もチズエ姉さんとまったくおなじでしたね。
松元 そういえば、こんな話しを聞いた事があります。佐仁集落では明治から昭和初期まで、結納の時の持参は餅重二段シュケ(おかず)の二段 計四段で一組とし、ふつう三組か四組が常識だったが、ときに五組だと『すごい』と話題になった。その当時に現金千円(現在の一億円)を持っていると言われていた家の息子が嫁取りをしたときは七組だったと聞いた時がある。重箱の数は二十八段になるわけですよね。他に『スズリフタ』といって、なかの品物をばらすと大きな荒目ヅケ一杯になるほどのシュケも持参したそうです。昔の方が貧富の差が大きかったのかな。
それから、明治生まれの母はよく『他シマ縁組結ぶなよ。落とさんはずのナダ(涙)ウトゥシュ』とよく言っていた。
閉ざされたシマの中だけの信頼された縁組、懐に小さな酒瓶を密かに隠し持ち
『チュウチュクヌ セエクァ アリョンジャガ センジュクト オムテ ウケティ クリンショレ』
(ささやかな酒ですが、千杯の酒と思って 受けて下さい)
謙虚に伝える使い人。そこには縁(えにし)と集落を大切にする人々の繊細な内面と伝統が現れているような気がします。