佐仁通信

 

忘れられている六十年前の惨事


・・・記録のない、片田舎の無惨な「歴史」

 昭和一桁生まれのわたしたちの子どもの頃の遊びといえば、男の子は竹馬、ハジキミ(パチンコ)こま回し、カッタ(メンコ)など。女の子はお手玉、ムク遊び(おはじき)、縄跳びなど。
 台風がすぎたあと、貝(ムク)を拾いによく海岸に行ったものです。五十ムクといって、めったにない貝殻を見つけ拾ったときは胸がどきどきするほど興奮したものです。
 男の子、女の子ともに、自然と密接につながった遊びしかしらない当時の子どもたちが、どうしてあのような惨事を招いた不発弾に手をだしたのでしょう。一瞬の「神の戯れ」か。

 昭和20年8月15日、第二次世界大戦が終わり、その年二度目の台風がすぎ、大人たちはそれまで毎日のように空襲にさらされ働くことのできなかった農作業、二期作の田植え、サドリガン(遅い芋植え)にいっしょうけんめい汗を流していたちょうどその頃、あの忌わしい悪夢は・・・・

 昭和20年9月18日、佐仁小学校では台風の後片付けをして、二学期を迎えるべく、大掃除のため全児童が山間部の疎開先から登校していました。後片付けが一段落し一息ついていた時、楠野方面に疎開していたT・Kたちが途中の海岸に漂着していた不発弾(きれいな青色をした30センチくらいのロケット型)を持ち込んで遊び始めたのです。
 そこは先生に叱られて中止。その後、掃除を終えた自習時間に、当時小学校5年生の教室に持ち込んでふたたび遊びはじめました。不発弾を持ち込んだT・Kが安田陽一(現佐仁地区老人クラブ会長)の親分格の少年だったので、当然のようにその遊びの車座に入りました。ところが同級生の栄忠孝がいたずらを仕掛けてきたので、彼の後を追いかけ車座から離れました。
 その直後です。「ドン」という、地を揺るがすような大爆発音がしました。そして、何人かの泣き叫ぶ声がしました。見ると肉片が周囲に飛び散り、数名の友人たちが倒れていました。想像を絶する地獄絵が繰りひろげられていたのです。
 今ごろこんな事故が起きたら、それこそ大変なニュースだと思いますが、往時は敗戦のドサクサのなかの出来事だったせいか、佐仁小学校には勿論、笠利町(当時は笠利村)などの関係部署にもなんの記録も残ってはいません。

(中略)

 ほんとうに記録としては何も残っていないのです。佐仁集落の人たちでさえ忘れかけようとしています。
 以下の文章は、間一髪で難をのがれた、主として安田陽一さんの記憶を頼りにわたしと二人で「記録として残そう」と話し合い、安田さんが遺族の了解を得て調べたり、わたしが同窓生から聞いたり、大怪我を負い一命はとりとめたものの、顔にかすかな傷痕をのこして気にしている知人から聞き取りをして、なんとかまとめたものです。

 亡くなった生徒
 田中慶三 高等科二年(田中才長 三男)
 越間清和  〃 一年(越間峰太郎 三男)

 亡くなった児童
 川畑陽光 国民学校六年(川畑武雄 長男)
 窪田 勲   〃 五年(窪田市熊 長男)
 平 清光   〃 五年(平 甚一 次男)

 怪我をした児童生徒
 山下健夫・西 秀則・泊 利美・平 アキ(旧姓 安田アキ)
 米田信吾・浜崎セイ子・福 和憲

ほかにも数名いたようです。

 運命の9月18日午前10時ごろ、佐仁小学校で「ドン」という爆発音がして、みんなが気がついたとき、5名は即死状態。その少年たちの肉片が教室の壁、天井にまで飛び散り、近くにいて怪我をした人たちの話によると、肉片が「自分たちの身体にへばりつき、洋服、カバンなどにもべったりくっついて・・。」血の海、泣き叫ぶ少年、少女の声。まさに地獄絵そのものだったようです。
 亡くなった5人の遺体は、駆けつけた集落の人たちに戸板にのせられ、それぞれの自宅へ無言の帰宅。怪我をした児童生徒は、名瀬で開業医をし、佐仁から4・5キロ離れた川上集落に疎開しておられた、小久保先生のもとに運ばれ、短い人で数カ月、長い人は一年ちかくも手当てを受けていました。

[田中キミさんの話]
 主人の弟である慶三さんを失った義母は、スズノ(笠利崎灯台に近い集落はずれの畑地)の畑にいっていたが、連絡に行った人から話を聞くなり気を失い、かつがれて家に帰ってきたようです。子どもを亡くした5名の親は半狂乱、自分の子どもを案じて学校にかけつけた他の親もひとしく狂乱状態だったようです。

[平テイ子=旧姓泊さんの話]
 当時、わたしは5年生でした。掃除を終え雑巾を洗っていたところ「ドーン」というものすごい音がしました。なにがなんだか判らないままに、気がつくと雑巾を握りしめたまま学校を飛び出し、集落のはずれまで走っていました。逆に学校に駆けつけた母は「子どもがいない、子どもがいない」と大騒ぎしたそうです。

 得体の知れないものを持ち込んで、いたずらをしたといえばそれまでですが、ハイカラな玩具などなにもなく、毎日空襲にさらされ、外で気ままに遊ぶことさえままならなかった時代、終戦でやっと解放されたウップンが、子どもたちの旺盛な好奇心を引き寄せたということです。だれになんの罪科があるというものではありません。強いて言えば戦争が犯人なのです。
 戦争は昔も今も年寄りや子ども、弱い立場の人が犠牲になるのが常です。あの忌わしい戦争さえなかったら、命を奪われた五名も、今ごろ佐仁の集落で中心的役割を担っていると思います。


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