南政五郎さんの「思い出」


 島唄の第一人者・南政五郎さんの「思い出」を綴ることは、私にとっては、私自身の幼いころの思い出をたどることでもあります。南政五郎さんは、私の実家の道路向かいに住んでおられて、私にはいわばごく近い隣りのおじさんだったからです。
 佐仁では明治生まれの年輩の方は、たいてい二つの「名前」をもっていました。戸籍上の名前がちゃんとあるにもかかわらず、通常の呼び名は全く別なのです。私の父など祖父母が名付けてくれた「恩次郎」という名前があるにもかかわらず「クムジロウオジ」と呼ばれていました。私の同期の悪童のなかには、これさえ逆さまにして「ロジムクオジ」と陰で言ったりしていました。「恩次郎」という正式な名前など、どこかに置き去りにされているふうでした。
 南政五郎さんもこの例にもれません。故人のおい・めいはじめ周囲の年下や幼少の者からは「ギンオジ」または「ギンオジサン」あるいは「ギンヤクム」として親しまれていました。紋付袴に衣装を整えた、泰然とした舞台姿からは、想像できないほど気さくで、私などにも「ミキ、親の手伝いか、おりこうさんじゃが」と声をかけてくれていました。私の父が、たまたま行政上の手続きかなにかで「・・・恩次郎」という戸籍上の名前でよばれたりすると、「どこの誰だっけ?」と他人のふうの感じでしたが、さすがに南政五郎さんだけは、全郡的に知れわたった名前だけに、集落でもなんの違和感もなく、二つの名前で通っていたようです。

 私が初めて政五郎さんの島唄を耳にしたのは、六、七歳の小学校にあがった頃です。政五郎の実姉の安田モトさんとのコンビで、レコーディングされた島唄でした。当時三百戸ちかい集落に一台しかない大型の蓄音機が私の家にはあり、芸事には全く無頓着な父が、ごく少量の晩酌をしながら、二人の島唄を聞いていたのを覚えています。八月踊りはおろか、唄遊びなどには無縁な父が、南政五郎さんの島唄だけは別格な反応をしていました。きっと政五郎さんの歌う島唄のなかに、この集落の風土と遠祖の魂に心が触れるような共感を覚えていたのかもしれません。政五郎さんの二女の典枝さんの話によると、このレコードは政五郎さん二十代の若さのときの最初の吹き込みだったそうで、唄者としての天賦の稟質は、父のような無機質のように頑固な男の心さえゆさぶっていたのでしょう。
 戦後いちはやく、喜瀬の山田フデさん、姪の森トシノさんたちと群島一円を行脚して島唄の普及に努力されています。その後、奄美の美空ひばりといわれた上村藤江さんとのコンビのレコーディングは、奄美に設備がないため、西宮(兵庫県)に出向いて収録そうです。これらの活動が戦後から復帰前にかけて、全く娯楽のなかった集落や群島民にどれだけのやすらぎと勇気を与えたかはかりしれません。

 あれだけの唄者が、なぜか八月踊りの輪のなかに姿をみせませんでした。孤高を保っているのかな・・・と不思議に思っていましたが、実はさにあらず、ノドを痛めないよう常に細心の注意をはらってのことだったようです。
 声者(コエシャ)と唄者(ウタシャ)がいるといわれます。二年ほど前から、集落の児童生徒十二名に自宅を開放して、島唄、三味線を教えている泊忠重さんの話だと、南政五郎さんは「忠重、欲張るんなよ。二つとも自分のものにしようと欲張ると、声をつぶすぞ」と忠告されていたそうです。

 私の故郷、佐仁では、泊忠重さん、前田和郎さんたちの唄者が、着実に 南政五郎さんの後を継いでいて、しかもそれらの方々が、小中学生の育成に心血を注いでいます。すでに昨年の奄美祭りの島唄大会には、笠利中二年の平美穂さんが出場しました。いっしょに聞いていた姉と私は、清澄な張りのある声と出色の歌いぶりに感動さえ覚えました。
 昭和六十年八月三日、八十七歳でこの世を去った 南政五郎さんも、生涯をかけた伝統芸能が子や孫に受け継がれていることに、泉下から激励と𠮟咤をおくりつづけていると思います。 政五郎さんの出棺のとき、ご本人の島唄のテープが集落に流され、みなさんで冥福を祈ったそうです。伝説の唄者の最後は、今なお皆さんの心に刻みこまれているようです。



200/3/31 「いじゅんごう・四号」


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